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吉祥院の歴史

吉祥院の開創

 『新編武蔵風土記稿』(文政十一年、1828年成立)によると、吉祥院は「小名星の地にあるので淵江山星谷寺(フチエサン セイコクジ)と号する。嘉元三年(1305年)の開創といわれるがその確証はない。境内に同年の古碑が残るのでそう伝えるのであろう。」とし、続けて「掃部宿(現千住河原町)の名主庄左衛門家(石出氏)の伝承に、吉祥院の開山は遠江の生まれで、先祖石出掃部亮が遠江から当地に移ったときに一緒に来たものであるとの説が残る。」と述べています。

 明治五年、二十五世住職星谷行阿は東京府へ提出した書上(「新義真言宗本末一派寺院明細帳」所収、東京都公文館蔵)で、創立が正応元年(1288年)であり、開山は円真としています。ところがわずか5年後の同十年七月に、二十六世住職吉際永実が同府提出の明細簿(「真言宗明細簿」所収、同館蔵)に「開山開基不文明」と記しています。また、近年の「新修足立区史」には、文永元年(1264年)開創としており、吉祥院の開創をめぐっては諸説が伝わっています。

 しかし、十三世栄昌(元禄九年、1696年没)が作ったと推定される歴代住職の位牌には、円真を開山とする栄昌以前の住職名が刻まれており、その年数から考えると歴史的事実としては吉祥院は室町時代の開創とみるのが妥当と思われます。

 前出の『新編武蔵風土記稿』は掃部宿の説明を、次のように述べています。

 当村ノ開墾ハ名主庄左衛門カ先祖石出掃部亮ナリト云、彼家ノ譜ニ云、掃部亮吉胤ハ千葉ノ氏族ニシテ、遠州石出ニ住ス、故ニ在名ヲ名乗レリ、後又下総国千葉ニ移り、文禄年中本木村ニ来リテ土地ヲ開キシカ、(下略)

 吉胤の千葉移転の時期は定かではありません。しかし本家にあたる千葉氏は戦国時代に足立郡淵江郷一帯を領有し、中曽根城を構えていました。小田原北条氏がこの辺に勢力を伸ばすと、同氏の客分として、淵江領の支配を任されました(小田原衆所領役帳)。しかし北条氏の滅亡とともに千葉氏も滅び、やがて吉胤は文禄元年(1592年)に舎弟で本木村吉祥院住職の覚源をたより、当地に引っ越したということです(「新修足立区史」、勝山準四郎著『足立の史話-日光街道をたずねて-』)。

 覚源の名は吉祥院住職名の中に伝わっていません。ただ、僧名には仮名(□□坊)と諱の両方があり、覚源を仮名とすれば、諱を記した位牌に表れない可能性もあります。いずれにしても、吉胤が本木の開拓に着手して掃部宿に移り、吉祥院がその当時に石出氏と関係を結んだことは十分に考えられます。

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