明治五年当時、吉祥院の檀家数は215軒でした(同年書上)。江戸時代もさほど変わらなかったでしょう。しかし、吉祥院は菩提寺としてだけでなく、さまざまな顔を持っていました。現世の利益を目的とする行事や尊像も、寺と多数の人々を結びつける重要なものでした。
大般若経の勧進と転読、全六百巻の経典を大勢の僧が一巻ごとに声高に転読し、万民豊楽・諸願成就・五穀豊穣・国家安穏などを祈る大般若の行事は多数の寺々で行われ、吉祥院でも昭和五十五年まで続いていました。当院の大般若経(足立区登録文化財)は、末尾に記された寄進者や願意によれば、十四世義真の発願です。義真は宝永二年(1705年)二月から翌年八月にかけて、一巻二百文の割合で多勢に寄進を仰ぎました。一人で十巻とか仲間同士で一巻を寄進した例もありますが、義真は経本の末に丁寧に寄進者名、住所、願意を記載しています(六百巻中二百九十巻に記載あり)。
寄進者は本木村を中心に四囲の村々、更に江戸にも及びますが、本木村居住者が記録に見る分のほぼ四割を占めています。と同時に、他村の分布を見ると、吉祥院の末寺や門徒のある村名と見事に一致しています。例えば旧埼玉郡鶴ヶ曽根村は本木村から遠く離れていますが、ここには末寺の宝憧寺があり、江戸金杉町には同じく西蔵院・世尊寺がありました。義真は自己の勧進をすすめながら、本末関係の組織を利用し、末寺の住職にも協力を求めたことは間違いないでしょう。
寄進者は本木村名主の牛込金兵衛のように、農民が多い中、江戸では石屋前田清三郎親子、幕府の関東郡代伊奈半左衛門の手代衆、甲府徳川家の江戸詰家中など町人や武士も目立っています。寄進の願意は、子孫繁栄・現世安穏・家内安穏・諸人愛敬が多く、武士に限り武運長久をうたっているのも興味深いところです。先祖供養のような減罪を願うのはごく少数で、大般若転読の主眼が現世の利益にあったことを如実に物語っています。
経本の収納箱は、明治三十三年七月志田浄月師の代に新調したものですが、箱ごとに十王堂、寺地、星谷といった集落名が記されています。これは、吉祥院での転読の後に、住民が集落の安全を願うため箱を持ち回る先の各集落名を記したものです。大般若の行事が吉祥院のものだけでなく、本木村一帯の人々に共通した行事であったことが偲ばれます。
護摩堂・弁財天池・富士山。これらは現存しませんが、元禄八年(1695年)の絵図には護摩堂と思われる建物が見えます。本堂西脇の墓地に接する道路が今でも「ゴマドウウラノミチ」と呼ばれているのはその名残です。
寛延二年(1749年)の絵図によると、かつて本堂斜め前に太鼓橋の架かる馬蹄形をした池があり、その内に弁財天を祭るお堂がありました。近年、池は埋められ、弁財天像は本堂に移されましたが、像の背中に書かれた銘文には、この像は元禄六年(1693年)に水谷六兵衛と母妙清信女が寄進したものと記されています。
また、この絵図にみえる富士山は、江戸時代後半に流行した富士山信仰の所産で、築山を富士山に見立てて、直接富士山に登拝するかわりにお参りしたものです。