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吉祥院の歴史

開創後の吉祥院

 先に述べた歴代住職の位牌には、開山円真以下の住職を真恵、賢海、祐盛、宗吽、賢明(下略)と刻まれています。賢朝(寛永五年没)は慶長四年(1599年)時点での住職であったことが確認されますが、それ以前の住職の事績は不明で、当時の吉祥院の伽藍や寺地の様子などは定かでありません。賢朝の時代はちょうど石出吉胤が千住大橋架橋工事、掃部宿の開拓、掃部堤の築堤に活躍中でした。

 そんな中で、現在本堂に安置される弘法大師坐像の胎内銘はいくつかの事実を教えてくれます。像は慶長四年九月中旬に、住職の賢朝上人大和尚が、後任に予定された真良房真鏡らの助成を得て造立したのもので、胎内銘には「淵江山吉祥院」の号もみえます。吉祥院に残る記録では、最古の使用例です。

 当院は、古来から吉祥院の院名で通っています。三号は普通、山号・院号・寺号の順に並びますが、当院はこの胎内銘のように吉祥院が最後にきます。これは誤記ではなく、開創当初は吉祥院の寺名だけで、やがて淵江山星谷寺の名が付与された経過を示しています。山号の淵江山はおそらく周辺の地理的環境が、淵郷の古名のように荒川近くの水とは切り離すことのできなかった景観に求められたものでしょう。

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