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正応元年(1288年)開創という古い歴史をもつ吉祥院ですが、文政二年(1819年)の火災により、文化財も含め七堂伽藍の多くを失ってしまいました。
しかし現在も、吉祥院には、本堂や境内に有形無形の文化財を多数有しています。
ここでは吉祥院のもつ文化財の中で、特に当院の歴史を明らかにしていく上で貴重と思われるものをいくつか紹介します。
江戸時代には吉祥院山門にかれていた扁額ですが、大正年間の山門改修を機会に本堂内に収納されました。※①宝鏡院宮(ほうきょういんのみや)の御染筆に菊の紋ということで、山門にかけられていた頃は、畏れ多いと住職以外の棺を山門の中に入れなかったそうです。
江戸時代、京都の仁和寺(にんなじ)の直末「中本寺」だった頃の貴重な寺宝のひとつです。
※①宝鏡院の宮 後西天皇の第十一皇女 理宝女王(1672.6.21~1745.6.11)
母は典侍清閑寺共子。 天和3年(1683)宝鏡寺にて得度。元禄2年(1689)宝鏡寺22世門跡就任。
宝永4年(1707)影愛寺住持となり尼僧で唯一紫衣被着を勅許される。絵を狩野周信に学び、能書家として多くの額字を揮毫。墓所は真如寺内の宝鏡寺宮陵にある。法名は徳厳理豊、追号は本覚院。
左手は膝上で数珠をもち、右手は胸前で五鈷杵を持ちます。像高45cm、玉眼嵌入、寄木造の坐像です。
この大師像には次のような体内墨書銘があり、慶長四年(1599年)在銘の弘法大師像として貴重なものです。
吉祥院本堂には多くの仏像が安置されていますが、その中で一番古いと思われるものが、地蔵菩薩坐像です。像高24.5cm、寄木造、玉眼嵌入、肉身部漆箔、着衣部古色仕上で、宝珠と錫杖をもつ宝珠錫杖地蔵であり、小振りですが室町時代中期の作との鑑定です。
地蔵菩薩は、菩薩でありながら一般僧侶の姿をして迷いの世界六道を尋ね回って、苦の衆生の救済を担当しているといわれています。
弁財天は吉祥天と同様に金光明経に出てきて、この尊をまつると財福おのずからあつまると説かれています。
像には二臂像と八臂像とがありますが、この像は女形で唐服をまとった八臂の通用の弁財天像です。像高40.0cm、寄木造、玉眼嵌入、彩色が施されています。昔は境内の弁天池の中州のお堂に祀られていました。
また、像の背中には次のような墨書名があります。
この墨書名から、弁財天像は元禄六年(1693年)九月二十八日に水谷氏により寄進されたことが分かります。また、開眼師に武州湯島(文京区)の根生院栄専が、供養導師に吉祥院十三世栄昌があたったことを教えてくれます。
吉祥院の弁財天堂の歴史を考える上でも貴重な史料です。
吉祥院本堂内陣の奥には、右側に弘法大師様、左側にはこの興教大師様が祀られています。興教大師様は僧名を覚鑁(かくばん)と言い、嘉保二年(1095 年)佐賀県鹿島市に生まれ、十三歳で出家し、四十歳の若さで高野山の座主となりました。しかし、その復興・改革の手腕に対し、高野山内の保守派僧侶の嫉妬が強く、そのため一年で座主を辞任し、当時の腐敗した仏教界に対して約四年間にも亘る「無言行(むごんぎょう)」によって抗議をされました。そして、この間に有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげんもん)」を著わされました。その後、争いを避け、紀州の根来山(ねごろざん)に隠退され、師を慕って集まった多くの学僧の指導に尽力されました。しかし、風邪をこじらせたのが原因で四十九歳の若さで遷化(せんげ)されてしまいました。
没後の元禄三年に真言宗中興(ちゅうこう)の祖として東山天皇より「興教大師」の諡号を賜りました。当寺の坐像は、像高四十三センチの寄木造りで、江戸時代初期の作といわれ、気品に満ちた落ち着きを持っています。
この観音様は、百観音巡拝と四国八十八ヶ所巡拝成満を記念して平成元年(仏師 由谷倶忘 作)に安置されました。 毎月18日の観音講(観音経・般若心経読誦会)午前六時半(冬期は七時)には30人以上の方が集まって、この観音様の前で読経をしていました。(現在は都合により中止となっています。)
江戸時代に、当山住職が江戸城内白書院の間に於いて、将軍家に年頭の御挨拶を申し上げに登城する際に使用されたものです。
普段使いの籠がもう一つありましたが、破損が激しい為、昭和56年(1980年)に解体し、その部材を使って、登城用の籠を修理しました。
吉祥院には、宝永二年(1705年)に当寺第十四世義真住職の代に購入した大般若経六百巻があります。当時の硬貨で三十両で購入したと言われ、各経巻の巻末には寄進者の氏名・村名・願意等が書かれています。戦前までは大般若経を五十巻づつ箱に入れ各図子(ずし)を担いで廻って五穀豊穣・無病息災などの祈願をしたそうです。平成十八年(2006年)に区の文化財係のご尽力により、詳細な調査が行われました。当寺の大般若経転読法要は残念ながら旧本堂の解体と同時に途絶えていますが経典等は貴重な寺宝のひとつとして大切に保存されています。
板石塔婆とも言い、緑泥片岩などを使い、上部を三角形にし、直下に二条の横線を刻み、その下に種子や仏像などを刻んだものです。鎌倉時代~室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られました。関東地方に多く、中世の地方の社会・文化の実状を知るうえで貴重な遺物です。『足立区史』には吉祥院所在の板碑として、正応元年(1288)・嘉元三年(1305)・正中二年(1325)十一月・延文年中(1356~1360)の四基の板碑が掲載されていますが、現在では確認することはできません。しかしこれらとは別に数基の板碑が所蔵されております。これらの板碑から、中世の吉祥院付近は阿弥陀信仰の盛んな地域であったことが想像できます。
「お不動さん」の名で親しまれる不動明王は、悪魔を降伏するために恐ろしい姿をされ、仏教の修行を妨げるすべての障害を打ち砕き、仏道に導き救済するという役目を持っており、真言宗の教主「大日如来」の使者とされています。お姿は、目を怒らせ、右手に宝剣を持ち左手に羂索(けんさく)を持つ大変恐ろしい姿をしていますが、そのお心は人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちています。当寺には不動明王の立像一体と写真の板彫刻の像があります。