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吉祥院の歴史

吉祥院の寺領

 中本寺の吉祥院は、伽藍の維持、諸行事の執行、諸方面の交際などに相当の支出を要しましたが、それを支えたのが土地経済でした。
 吉祥院は慶安元年(1648年)九月十七日に次の朱印状をもって、三代将軍家光から本木村のなかに五石の朱印地を寄進されました。

朱印箱 朱印状  武蔵国足立郡本木村吉祥院領同村之内五石事、
 任先規寄附之詑、全可収納、並寺中境内竹木諸役等免除、
 如有来永不可有相違者也
   慶安元年九月十七日(御朱印)
 武蔵国足立郡本木村  吉祥院

 この後も将軍の代替わりごとに同様の朱印状が交付されました。ところで文中に「先規に任せ」とあるように、実際は以前からの朱印地を寄進し直したものでした。戦争中に供出した梵鐘の銘文に、徳川家康が鷹狩りの折に吉祥院を御膳所とし、朱印地を寄進した旨の説明があったそうです。

 朱印地は一応寄進の形をとるが、実状は江戸時代以前からの領有地を、徳川家康が天正十八年(1590年)に関東に入国してから検地を行い、改めて寄進の体裁をとり、所有を許したものが殆どです。吉祥院の場合も、江戸時代以前の土地が朱印地につながったと思われます。

絵図元禄八年 十三世栄昌が元禄八年(1695年)に作成した絵図は、境内を中心に周辺の朱印地、除地、年貢地の位置、一筆ごとの面積、堀や道路の位置を示したもので、江戸時代半ばの吉祥院と周辺の模様を視覚的に捉えています。これから寺領を種目別に合計すると次のようになります。
 朱印地 田五反九畝ニ六歩 畑四反九畝一四歩
 除 地 田九畝一六歩   畑二反七畝ニ九歩
 年貢地 田五反一畝一一歩 畑三反五畝ニ七歩

 この他に種目不記(おそらく除地)が四反九畝三歩あり、総計ニ町八反三畝六歩でした。その他、境内地分は四反一畝一八歩でした。なお、田畑には地味の格差により上、中、下等の等級がありました。種目の中、朱印地・除地は年貢を免除された点は同様ですが、朱印地は将軍の朱印状をもって権威付けられていたのです。

 元禄八年時点での寺領規模は、そのまま明治まで推移したわけではありませんでした。宝暦八年(1758年)に書かれた「茶湯料田地之事」という文書によると「石井定右衛門が施主となり、自分の下田一反一九歩、石高六斗三升七合八夕の地を吉祥院本尊の茶湯料として寄附する。宝暦八年からの年貢や諸役などは寺側から負担していただきたい」とあるほか、明治七年の吉祥院「寺院什器録」(東京都公文書館』には享保九年(1724年)に檀家の石井庄兵衛が田八反四畝一五歩、寛政五年(1793年)には石井新八郎が田三反ニ七歩を寄進しているとあります。吉祥院は江戸時代を通し、寄進の形で田地の集積を続けました。朱印地や除地とならび、これらからの収益は吉祥院の台所を大きく支えました。

 明治になると、新政府は同四年に上地令を発して従来寺院が領有した朱印地・除地を没収しました。吉祥院も例外ではなく、打撃は大きかったのですが、幸いにも明治九年九月に旧朱印地・除地の大半を生産高と等価による払い下げに成功して、旧来の年貢地とならび民有地の形で所有することができました。それらの面積は明治十年の吉祥院「明細簿」によると、境内地(ただし管有地)2,702坪、民有地(墓地・墓守屋敷も含む)は田畑合計三町八反五畝一五歩でした。その維持、増加には住職の努力のみならず、石井氏のような存在がありました。

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