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吉祥院の歴史

戦後の吉祥院

 太平洋戦争の敗北は、空襲による伽藍の消失、更に農地開放令による寺有田畑の消滅など、深刻な影響を寺院に残しました。そんな中で吉祥院は幸いにも空襲を免れ、開放田畑も三反だけで済みました。しかし、昭和三十二年から翌年にかけ足立第六中学校移転の話が持ち上がり、吉祥院は校舎・運動場・体育館の用地として(江戸時代の初めから伝えた土地を、公共用地として)六反の寺有地を提供しました。

旧本堂 一方、江戸時代文政二年十月二十九日(1819年)の炎上後、同十一年(1828年)に再建されて以来、風雨に耐えてきた本堂も老朽化が進んでいました。大改修も検討されましたが、新築の道が選ばれました。昭和五十四年三月二十三日に旧本堂は解体され、翌年十二月六日に上棟がなり、翌五十七年十月十一日に本堂、客殿の盛大な落慶式が営まれました。この新築で江戸時代の建造物は山門・鐘楼堂だけとなりましたが、住職と檀徒との協力のもとに完成となった本堂の威容は、長い歴史の中で幾多の困難を乗り越え、発展して来た吉祥院の姿を象徴するものとなりました。

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