トップ > 吉祥院の歴史 > 明治以降の吉祥院

吉祥院の歴史

明治以降の吉祥院

 明治の開幕は、江戸幕府の保護、統制下におかれて安逸な方向に傾いた仏教教団にとって試練の時代を意味しました。新政府は神道の国教化を目指し、当初仏教を弾圧し廃仏毀釈の嵐が吹きまくりました。宗団・寺院は新時代に対応するために苦慮を重ねました。

 吉祥院も星谷行阿・吉際永実・岡村龍善師と住職が続く中で、土地経済面では何とか旧来に近い収益を確保し、打撃を最小限に食い止めました。一方、江戸時代後半の新義真言宗内は、長谷寺・智積院を中心とする両派の成立が明白となっており、それぞれ初瀬方・豊山派、京方・智積院方・智山派などと呼ばれていました。吉祥院は豊山方に由緒の寺でした。

 明治四年に新政府は触頭制度を廃止しました。このことは前に述べた新義・古義を分別する機構が消滅したもので、宗内は一時混乱しましたが、明治十九年三月になり、智積院と長谷寺を両本山とするグループを正式に真言宗新義派と公称することが政府から公認されました。しかし、この時でも古義の法流本寺と新義の中本寺間の本末関係は清算されませんでした。吉祥院の場合、宗団の事務機構上は新義派事務斗の管掌下にありましたが、仁和寺からも末寺としての干渉を受けたのです。この状態は完全な宗団体制を敷こうとする新義派には不都合で、必然的に両派間にわたる本末関係を一掃しようとする運動が起こりました。そして明治二十七年九月に、最も多数の新義寺院末寺をかかえる醍醐寺との間に離末協約が締結され実施されることになりました。しかし、吉祥院のように醍醐寺以外の場合はなかなか進展せず、ようやく実現したのは明治三十年五月に協定が成立してからでした。翌年十一月に吉祥院は協定に基づき仁和寺を離れ、長谷寺の末寺に転じました。そして明治三十三年八月、新義派は別々の総本山・管長を仰ぐ、独自の宗制に基づいた二つの宗団に分かれました。新義真言宗豊山派(長谷寺方)と同智山派(智積院方)でした。古義派の中も同時に五派に分かれました。吉祥院や門末は当然ながら豊山派に属することになり、ここに初めて豊山派の吉祥院が誕生したのです。

 しかし、豊山派内部の問題として、吉祥院のような中本寺を頂点とした本末関係の取り扱いが浮上してきました。前に述べたように、本寺にとって門末の存在は自己の格式だけでなく、様々な行事の遂行上不可欠なものでした。本末関係が身分制度の側面をもちながらも、こうした現実があるため本末関係を解消しようとする主張はなかなか強くなりませんでした。しかし、大正も過ぎ、昭和になると見直しの気運が強まり、ついに豊山派では昭和十三年に全所属寺院を旧来の寺格如何にかかわらず、総本山長谷寺の末寺にすることに決し、同年三月一日に宗規をもって発布しました。前年七月には日支事変が発生し、国内は戦時体制が敷かれて各宗教教団も国策協力を余儀なくされていく時期のことでした。

 ここに吉祥院の末寺は、寺格の差異から生ずる上下関係を脱し、等しく総本山の末寺という対等の立場に立ちました。吉祥院にとっても、末寺にとっても新時代の到来でした。

<<前へ | 次へ>>