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吉祥院の歴史

本末関係

 寺院間に結ばれた関係のひとつに本末関係があります。本寺や末寺と呼ばれる寺格はこの関係に基づきました。寛永十年(1633年)に新義真言宗の触頭・江戸四箇寺が幕府に提出した「関東真言宗新義本末寺帳」の中に、「一、淵郷吉祥院本寺西ノ院」とあります。当寺の本末関係を示す最古の資料です。吉祥院は京都の仁和寺に伝承される「西院流」を相承してきたので、同寺の末寺とされたわけですが、いつごろからそうなったかは定かではありません。

 真言僧は事相法流を究める面での修行や伝授を重要視しました。事相とは、大日如来の説く真言密教の真理を儀礼や修行上の形態に具体化したものですが、事相の内容は、長い間の流伝の過程で多くの流派(法流)に分かれました。「西院流」もその一つでした。その正統は京都の仁和寺、醍醐寺などに伝えられ、法流本寺、事相本寺などの名称で呼ばれました。これに対して高野山や根来寺は教相(教義・理論の意)本寺と呼ばれていました。

 一方、教義上の教学研究の相違から、高野山を中心とする古義に対し、根来寺(江戸時代は長谷寺と智積院)を中心とする新義が生まれ、古義と並立するようになりました。

 吉祥院は法流としては古義を相承しながら、歴代の住職は新義の本寺である長谷寺で勉学をするのが通例でした。従って当寺は住職の修学内容と法流面の本末関係の基準からすると、新義と古義の両派に由緒をもつことになるのです。そこで、江戸時代には混乱を防ぐため、新義・古義の両寺院を宗務行政上から別々に統括する触頭が設けられ、その統括が古義の事相本寺からの干渉を制限したために、新義真言宗は宗団のまとまりを保てたのです。『仁和寺末寺の吉祥院』という本末関係の実態はこのようなものでした。

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